ニンギョウトニンギョ 第壱話
2006,08,16, Wednesday
親愛なる幸恵に捧げる……。
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第壱話「天魚伝説」
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「もう1つの伝説って?」
「その名も『天魚伝説』と言います」
幸恵の問いかけに、魚ノ目は身を乗り出して答えた。
「その昔。まだこの島の名前が『天魚』と呼ばれていなかった頃。浜辺に一人の少女が倒れていました。一人の若者が少女を介抱してあげました。少女は記憶を無くしていましたが、親切な若者に心を開き始めました。この島では漁が続く願掛けに毎年処女を一人、海に捧げる風習がありました。島の者はこの少女に目を付け、生け贄にしようと若者に詰め寄るが断られました」
「そんな伝説、やっぱり知らないわ」
「島の者達は若者に眠り薬を盛り、少女を連れ出しました。その夜、少女が涙を流すと天の川から龍が降りて来て、大雨を降らせ島を沈めてようとしました。少女は天の遣いだったのです。目が覚めた若者が龍に救いを乞いましたが、足を滑らせて海に落ちて死んでしまいました。少女は若者を追って海へ身を投げました」
魚ノ目は身振り手振りで話した。
「やがて美しい魚が天へと昇って行きながら、綺麗な歌声を響かせました。それを聞いた龍は心を沈めて帰りました。島の者達は天に昇った魚は少女の生まれ変わりと悟り、自分達のして来た事を深く反省しました。そしてあの歌声を忘れないようにと『歌ウ魚』を育てたのでした」
「なるほどー。面白いお話ね」
幸恵は感心したように言った。魚ノ目は水筒を出していた。
「はあはあ。また一気に喋ってしまいました」
「ちょっと! 添乗員さぁーん!」
魚ノ目の背後で中年の女性が大声を出した。
「あんたねー、私達を放っておいて若い娘とおしゃべりしてるって、どう言う事よ! こっちはお客よ!」
「すいませんすいません。ちょっと道を聞いてました」
「嘘おっしゃいな。船の上で道なんか聞いてどうするのよ!」
中年女性は近付いて来た。
「ごめんなさい。私が無理を言ってお相手して頂いていたんです」
幸恵は女性に頭を下げた。
「あら。随分と素直なお嬢さんね。気に入ったわ」
「有難うございます」
「私、日下部景子(くさかべけいこ)。お嬢さんも旅行かしら?」
「初めまして。曾根崎幸恵と言います。私はあの島へ里帰りなんです」
「あら、そうなの。故郷があるって羨ましいわね」
「日下部様には故郷は無いんですか?」
魚ノ目が会話に加わった。
「私は未だに実家暮らしなのよ。嫁の貰い手が無くってね。ほほほほ」
景子につられて幸恵も笑った。
「それはそうと添乗員さん。みんな向こうで貴方を待っているのよ。そろそろ戻って来なさいな」
「それは失礼しました。では幸恵さん、また島でお会いしましょう」
魚ノ目は慌てた様子で景子と共に客室に入って行った。
「ふう」
目の前に近付いて来た天魚島を見ながら、幸恵は溜め息をついた。
そして胸のペンダントを開いた。裏には『親愛なる幸恵に捧げる』と小さな文字で書かれており、中には笑顔の家族写真が入っていた。
「お父さん、お母さん……。私はとうとう来てしまったよ、この島に」
天魚島の向こうはやや暗雲が立ち篭めて来ていた。
「幸恵様……」
幸恵が振り返ると、老人が立っていた。「龍雄様をお部屋にお連れしました」
「有難う、爺や」
「なんだか雲行きが怪しくなって来ましたな」
「ええ」
「今夜は雨かのぅ……」
玉露院家に仕えてもう半世紀という老人も、幸恵と一緒に空を見た。
「爺や」
「何ですか?」
「これから私に何が起きても、それは運命と覚悟しています」
「そうですか」
「ですから、爺やもそのつもりでいて下さい」
「……判りました」
二人は近付いて来る天魚島を見つめた。
そんな二人を物陰から見つめている人影には気付かずに……。
(つづく)