SACHiEl (12/13)
2006,06,27, Tuesday
「幸恵…」
俺はどうして良いのか判らなくなった。
幸恵の話している内容は事実なのだろうか?
「疑っている? それじゃあ…もうすぐ雨を降らせてみせるわ」
そう言って幸恵は空を見上げた。つられて俺も空を見上げた。いつの間にか先ほどまでの美しい夕焼けは怪しい雨雲で隠れていた。そして…。
ポツリ。ポツリ…。
雨が降って来た。
「どう? 信じる? 私は水の天使なのよ…」
幸恵は自慢げな表情で俺を見た。そして微笑んだ。
本当に水の天使なのか?
俺はこの非現実的な中から抜け出したかった。好きになったかもしれない、いや、多分、俺は彼女が好きになっていた。だからこそこの複雑な気持ちをどうにかしたかったんだ。
いやだ! いやだ! こんなのいやだ!
その時、頭を過ったあるイメージ。此処に向かう直前の行動。いつもの癖で外出前に…。
は! そう言えば…。
俺は冷静を装って語りかけた。せめてもの俺の抵抗だった。
「そうかな?」
「え?」
「此処へ来る前にテレビで観たんだ。夕方から急に雨が降るって。君が俺を此処へ呼び出した時に、君はその事を知っていたとしたら?」
「……」
本当にこの雨が、幸恵の降らせたものだったとしても、どうしても認めたく無い心の叫びだった。
雨は強くなってきた。
足元に出来る小さな斑点が少しずつ重なり広がってきた。
「そう…」
幸恵は俯いた。「天気予報、観てたの?」
「え? なんだって?」
俺は更に訳が判らなくなっていた。
雨はどんどん強くなった。俺も幸恵もすっかり濡れていた。
いつしか屋上には、俺達の他に病院の関係者が何人か洗濯物のシーツを取り込みに現われていた。
幸恵は何も話さなくなっていた。俺はどうしたものかと思って近付いた。
「!?」
幸恵は泣いていた。流れる涙を押さえる事も無く、泣いていた。
「私も天使になれないのかな?」
その一言で俺は察した。彼女も天使になりたいと思い込んでいたんだ。そしていくつかの願いと偶然が重なったんだ…と。
人の気持ちは難しい。さっきまで信じていた事実が一瞬で変わる。
俺はそっと幸恵を抱き締めた。そして今まで幸恵と会った時間を思い出していた。
あ…。
もしかしたら。
俺は自分自身の行動も思い描いていた。あの少女達を見た時に偶然観たテレビ番組。幸恵と非現実的な会話の翌朝見た夢。沢山のカラス。F中の火事。無意識に関連付けてしまった黙示録。幸恵のノート。天使達の名前。クレイジー。
俺もいつしか現実と虚構が一緒になってしまっていたんだ。だからこそ幸恵の話を信じてしまった。人は誰でもちょっとした勘違いや思い込みで気持ちが変わる。嘘も本当になる。
それは何かにすがりたかったあの少女達、そして、幸恵と同じだ。
「ごめんなさい…」
幸恵は震えた小さな声で言った。「きっと私が悪いの」
「……」
俺は何も言えずただ抱き締めていた。
「君達ー、」
雨の中の俺達に病院の関係者が声をかけた。「そんな所にいたら風邪ひくぞー」
一瞬、そっちに気を取られた俺の腕から幸恵はゆっくりと抜け出た。俺にはスローモーションのようにそう感じた。そして幸恵はあの微笑みを俺に見せた。
「ごめんなさい…」
幸恵の身体は屋上の手すりの向こうに消えた…。
あれから俺の記憶は曖昧だった。
愛する人を目の前で失ったショックで、俺の精神は崩れたそうだ。
実は家族や友人の話で現在は記憶として認識しているのだが、俺は解離性障害で入院していたらしい。正直その事は覚えていない。
通常、解離性障害は極度のストレスが引き金となって突発的に発症する。この場合のストレスは、衝撃的な出来事、事故、災害などを体験したり目撃する事で引き起こされるそうだ。他に、あまりにも耐えがたい心理的な葛藤から、相いれない情報や受け入れがたい感情を意識的な思考から切り離さざるをえなくなったため発症する場合もある。
俺はどうにかその障害と向き合い、克服し、平常な生活に戻った。そして自分が希望通りの人生をあまり過ごせなかった反動からか、悩み多き若者と一緒に過ごし、少しでも力になって支えてあげたいという気持ちから教師となった。
日常での問題は特に無かった。唯一、人の名前を覚えられない事があったが、生徒の名前は胸の名札や出席名簿で確認出来たので支障は無かった。
そして俺は今、20年振りに、昔愛した女性の名前を思い出した…。
「幸恵…」
(つづく)